津山事件 リンク集
津山事件(つやまじけん)または津山三十人殺し(つやまさんじゅうにんごろし)は、1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両部落で発生した大量殺人事件である。2時間足らずで30名(自殺した犯人を含めると31名)が死亡し、3名が重軽傷を負うという、日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件であった。
一般には津山事件と呼ばれることもあるが、この呼称は便宜上、地域にある知名度の高い中心都市の地名を冠したものであり、正確には津山市外の西加茂村[1]で起きた事件である。
犯人の姓名を取って都井睦雄事件ともいう。都井は事件当時21歳だった。
犯人の都井睦雄(とい むつお)は1917年3 月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見に生まれた。2歳のときに父を、3歳のときに母を、ともに肺結核で亡くしたため祖母が後見人となり、姉とともに祖母のもとに引き取られた。6歳のときに一家(祖母・姉・都井、戸主は都井)は祖母の生まれ故郷の貝尾部落に引っ越した。
都井家にはある程度の資産があり、畑作と併せて比較的楽に生活を送ることができた。祖母は自身の体調不良等を理由に、都井に家中にいることを要求したため、都井の尋常高等小学校[2]への就学は1年遅れ、就学後もたびたび欠席を余儀なくされたが成績は優秀だった。その後担任教師に岡山市内の中学校(旧制)への進学を勧められたが、祖母に反対されたために断念せざるを得なくなった。
都井は、尋常高等小学校を卒業直後に肋膜炎を患って医師から農作業を禁止され、無為な生活を送っていた。病状はすぐに快方に向かい、補習学校(後に青年学校に改組)に入学したが、姉が結婚した頃から徐々に学業を厭い、家に引き篭もるようになっていき、同年代の人間と関わることはなかった。一方で、自身が子供向けに作り直した小説を近所の子供達に読み聞かせて、彼等の人気を博した。さらに、近隣の女性達とこの地域での風習でもあった夜這い等の形で関係を持つようになっていった。
しかし、都井は事件の前年、1937年に徴兵検査を受けた際に、結核を理由に丙種合格(実質上の不合格)とされた。その頃から、都井はこれまで関係を持った女性たちに、都井の丙種合格や結核を理由に関係を拒絶されるようになった[3]。
おたすけナース
都井は「結核で死亡するくらいなら阿部定事件以上のどでかいことをしてやる」と親しい友人に言っていた。都井は1936年に発生した阿部定事件について異常な関心を示しており、大阪の知人を訪ねた際には極秘に地下出版されていた阿部定の予備審問における自供調書の写しを知人に見せてもらって書き写したほどであった。
都井は最初に、自宅で就寝中の祖母の首を斧で刎ねて即死させた。その後、近隣の住人を約1時間半のうちに、次々と改造猟銃と日本刀で殺害していった。
被害者たちの証言によると、この一連の凶行は極めて計画的かつ冷静に行われたとされている。「頼むけん、こらえてつかあさい」と足元に跪いて命乞いをする老人に都井は「お前んとこにはもともと恨みも持っとらんじゃったが、嫁をもろうたから殺さにゃいけんようになった」と言って猟銃を発砲した(彼は重傷を負い、後に死亡した)。しかしある宅の老人は返り血に染まった都井の姿に脅え、逃げることも出来ずに茫然としていたところ、「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの」と言われて見逃されたという。またある宅でも、その家の主人が「決して動かんから助けてくれ」と必死に哀願したところ都井は「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と言い残しその場を立ち去っている。
都井の凶行はさらに続き、最終的に事件の被害者は死者30名(即死28名、重傷のち死亡2名)、重軽傷者3名にのぼった。死者のうち5名が16歳未満である。計11軒の家が押し入られ、そのうち3軒が一家全員が殺害され4軒の家が生存者1名のみとなった。押し入られた家の生存者たちは、激しい銃声と都井の怒鳴り声を聞き、すぐに身を隠すなどして助かった。また、2名は襲撃の夜に村に不在だったため難を逃れている。
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